ダイハツの100年をかいま見る

生い立ち

 我が国が工業製品の多くを外国製に頼っていた時代、独自技術の開発、技術の国産化、特に動力源となる発動機の国産化が必要と志す人たちによって、1907年3月、発動機製造株式会社(現・ダイハツ工業株式会社)は設立された。大阪高等工業学校(現・大阪大学工学部)との産学協同の草分け的存在といわれる。

1907年12月に完成した最初の6馬力吸入ガス発電機。

 大阪の實用自動車製造株式会社が1920年に発行した“ゴルハム式實用自動車(三輪車)”のカタログに「本社製造實用自動車は技術的良心の卓越せる外人技師の指導の下に部分品は總て永年の試練を經し米国製品を用ひ、厳密なる試驗を經て、従來の姑息製品(筆者注:国産品を指す)に附隨せる諸ゆる缺陥を補ふて餘りあり、・・・」とあり、当時の国産自動車部品の立場が推察できる。
 発動機製造株式会社は創業した年の12月、製品第1号となる”6馬力吸入ガス発動機“を完成する。1917年には船舶用の蒸気機関を、1922年には”超ディーゼル小型発動機“を完成するなど、発動機を中心とした活動を進めた。

1919年に2台試作された軍用自動貨車。

 自動車関連では、1919年に軍の要請、指導で軍用自動貨車2台を試作したが量産には至らなかった。
 1937年、陸軍自動車学校主催で四輪駆動式自動車比較審査会が開催され、1200cc空冷2気筒エンジンを搭載した四輪駆動式小型自動車を試作、過酷なテストに好成績で合格したが、量産されなかった。
 同じころ、732cc空冷4サイクル、我が国初の水平対向2気筒エンジンを積んだ小型四輪トラックを発売したが、日中戦争の勃発で軍需生産が優先されたため、約200台生産して中止されてしまった。

 

最初の三輪自動車1930年HA型ダイハツ号。

東京府に納車された三輪乗用車。1936年型カタログのユーザー紹介ページより。

1947年8月、日本小型自動車工業会発行の海外向け資料より。SE型と思われるが、生産能力月産500台に対し、実際の生産は200台、輸出は50台、納期3ヶ月とある。

 

1937年FA型小型四輪トラック。732cc強制空冷4サイクル水平対向式エンジンを積む。

生産台数:約200台

1937年に試作された四輪駆動式小型自動車。1200cc空冷2気筒エンジンを積む。

 

物流の主役だったオート三輪

1953年SR/SSR型のカタログ。1952年からキャビンが付き、1953年から新デザインのプレス成型されたキャビンが付いた。ダイハツの特徴である細いクロームの横棒を組合わせたグリルはこの年から採用された。エンジンは736cc単気筒空冷4サイクル15馬力。右下方に10万台突破!の文字が躍る。

 むかし三輪自動車は“オート三輪”、とか“バタバタ”と呼んだ。
エンジンを造ることにかけては自信のあったダイハツは、1929年4月に2サイクル350cc単気筒、翌30年4月には4サイクル500cc単気筒ガソリンエンジンを完成、当時数多くあった小規模三輪自動車組立業者に売り込みを図ったが、国産品=粗悪品という風潮は変わっておらず、売れなかった。
 それでは自分で造ってやろうと決断。1930年12月に1号車を完成した。改良を加え1931年から量産に入ると好評で、1937年には年間5122台生産された。しかし、第2次世界大戦の影響をもろに受け、民需用の生産台数は激減する。
 戦後もいち早く回復し、1946年には小型三輪自動車の国内総生産台数2696台の内、ダイハツは1455台(シェア54.1%)を造った。しかし、順調に伸びた市場も1957年の11万1352台、ダイハツは35953台(シェア32.3%)をピークに小型トラックと立場が逆転、急速に落ち込む。ダイハツは1972年の565台を最後に撤退。2年後には我が国の小型三輪自動車の生産はすべて終了した。
 三輪自動車の装備が充実し、大型化され(全長6mを超えるモデルもあった)、四輪トラックとの価格差が小さくなった結果、より快適で安全な四輪車に需要が移っていった。1956年に登場した安価で魅力的なトヨエースの影響も大きい。
 ダイハツの小型四輪トラック対応は、1958年にベスタ、60年にF175、62年にはハイラインを投入し進められた。
 ダイハツの三輪自動車で最も注目したいモデルは1951年に発売された三輪乗用車ビー(Bee)。4サイクル水平対向2気筒エンジンをリアに積み、リアサスペンションはトーションバーとコイルスプリング併用による独立懸架、丸型ステアリングホイール。排気量と出力はダイハツ工業100年史によると804cc、18馬力。カタログには540cc、13.5馬力と記されている。当時仕様変更は日常茶飯事だったので驚くことではない。約300台生産し1952年で生産中止された。
 1951年12月、社名を発動機製造株式会社から、ダイハツが広く認知されており、より親しみやすいダイハツ工業株式会社に変更した。

1951年ビー。水平対向エンジンによるRR方式のため、床面はフラットですっきりしている。

新社名のダイハツ工業株式会社に注目。

丸ハンドルを採用した1957年RKM/RKF型のカタログ

1960年6月に発行された海外向けMP3型のカタログ。ミゼットの名称は無く、”トライ・モービル”と呼ぶ。エンジンは305cc、12馬力に強化された。左ハンドルに注目。

1961年4月発行の輸出用特装車のカタログ。ダブルキャブからトレーラーまでバラエティに富む。

 

 

軽の先達:ミゼット/ハイゼット

1957年ミゼットDKA型のカタログ。エンジンは249cc強制空冷2サイクル8馬力

 1950年代、オートバイは荷物を運ぶ道具として使われていた。ところが三輪自動車が豪華、大型化するに従い格差は拡大していった。そのスキマを狙って投入されたのがミゼットである。1958年8月発売すると狙いは的中。米国を含め2万台弱(全生産台数の約6%)が輸出された。有名なのはタイ庶民の足トゥクトゥク(独特のエンジン音から付けられた愛称)で、現在も活躍している。
 しかし、爆発的に伸びた市場も1960年の19万975台、ダイハツは8万6411台(シェア45.2%)をピークに、60年11月に投入された、ダイハツ・ハイゼットをはじめとする軽四輪トラックに取って代わられ、最後までがんばったダイハツも1971年の2509台を最後に生産を終了した。ミゼット/ハイゼットは我が国固有の軽自動車文化醸成の先達と言えよう。

ミゼットDSA型のボディタイプ紹介。1960年8月発行の輸出用カタログ。エンジンは249cc、10馬力にパワーアップされた。

1960年11月発売されたハイゼット・ピックアップ。エンジンは356cc強制空冷2サイクル直列2気筒17馬力。

1961年5月発売されたハイゼット・ライトバン。

 

 

初の小型乗用車:コンパーノ

1963年5月、ダイハツ初の小型量産車コンパーノ・バン/ワゴンが発売された。エンジンは797cc 直列4気筒 41馬力。バン:46.5万円、バン・デラックス:49万円、ワゴン:57万円

 1950年代後半になると、敗戦で完膚無きまでに打ちのめされた我が国経済も立ち直りを見せ、貿易・為替の自由化が重要な対外政策課題となってきた。当時国際競争力の弱かった乗用車に関し、通産省は乗用車メーカーを3グループに集約し、それぞれが競合しないモデルを集中生産する構想を打ち出した。これを受け自動車メーカーは乗り遅れまいと競って乗用車の量産体制を促進した。 
ダイハツの回答がコンパーノであった。デザインはイタリアのアルフレッド・ヴィニアーレに依頼した。これは後発であるダイハツとして賢明な選択であったと思う。奇をてらうことなく上品なクルマであった。
1963年5月にバンとワゴンを発売。その後ダイハツによってデザインされたベルリーナ(セダン)を64年2月に、更に65年4月にはスパイダーが発売された。1971年まで合計20万9365台生産された。
 当時の我が国乗用車環境は、1955年に最初の本格的乗用車クラウンが発売され、57年にスカイライン、59年にブルーバード、60年にコロナ、61年にコンテッサ、63年にコルト、コンパーノ、ベレット、65年にファミリア、66年にサニー、カローラとほとんど出揃っており、60年代に入ってからのモータリゼーションの急激な普及により、我が国の乗用車生産台数は軽自動車を含めると1971年には約372万台に達し、米国の約858万台に次いで世界第2位に達していた。 10年前の1961年には約25万台(世界第6位)であったから、10年で15倍という驚異的な成長であった。
 1967年11月トヨタ自動車と提携。トヨタ自動車が筆頭株主となり、持株比率は2007年3月時点で約51%となっている。
 提携のメリットを活かし、1969年4月、パブリカをベースにダイハツの1リッターエンジンを載せたコンソルテ。74年にトヨタとの共同開発によるシャルマンを発売した。

1964年2月、コンパーノ・ベルリーナが登場する。スタンダード:49.8万円、デラックス:57.8万円

1964年東京オリンピックの直前にオリンピア-東京間1万8000キロの聖火リレー走破を宣伝するリーフレット当時は大変な事だった。

1965年4月に発売されたコンパーノ・スパイダー。これは64年9月の第11回東京モーターショーで配布されたプレカタログ。エンジンは958cc 直列4気筒 65馬力。69.5万円

 

 

5平米カー:シャレード

1977年11月登場した”5ヘーベー・カー”シャレード。65.3〜82.3万円

1977年10月、企画開始から10年を要したといわれる5平米カーシャレードが登場する。「おとな4人がゆったり乗れるスペースを確保し、車両寸法は可能な限りコンパクトに、投影面積を5?とする」を基本コンセプトに開発された。新開発のFF横置き、1000cc 3気筒エンジンも限られたスペースに収めるための苦肉の策と聞く。
 シャレードは1977年カー・オブ・ザ・イヤーを受賞。販売も好調であった。海外ラリーにも参戦し好成績を収めている。
 1983年1月、2代目となり、世界最小の1000cc 3気筒ディーゼルエンジンが加わる。その後もガソリンターボ、ディーゼルターボなどを加えながら進化を続けた。23年間に合計165万8401台が造られ、2000年に生産終了した。
余談だが、我が国を代表する5平米カーに1972年7月発売された初代シビックがある。
 欧米では2ボックスが小型車の標準形となりつつあったが、当時日本ではFR、3ボックスが主流であり、2ボックス採用に躊躇したが、公表はされなかったが政府の唱える国民車構想「日本国民が生活水準に合わせて購入できる小型車は5平米以内の大きさで有るべき」という情報を入手し決断したといわれる。実際に完成したシビック2ドアモデルの占有面積は5.12平米。発売4年で累積販売台数100万台に達する大ヒット作となった。

1978年9月に戦列に加わったシャレード・クーペ。69.8〜83.8万円

1984年1月発売の日伊共同開発車シャレード・デトマソ・ターボ。エンジンは993cc 直列3気筒 80馬力。124.1万円

1984年9月に登場したシャレード・ディーゼルターボ。エンジンは993cc 直列3気筒 50馬力。107.5万円(5ドア)

シャレードのエンジンは海外メーカーにも積極的に供給された。これはその一例で、ギリシャのオートメカニカ社がシャレードのプラットフォームに架装した”ゼブラ”。1981年。

 

 

 

 

初の軽乗用車:フェロー

1966年11月に発売されたフェロー・バン。他にセダンとピックアップが用意された。

 1955年にスズライト、58年にスバル360、60年にマツダR360が発売されると、軽乗用車市場は急速に拡大し始めた。62年にはマツダ・キャロル、スズキ・フロンテ360、三菱ミニカが加わり、やや出遅れたダイハツも1966年1月、軽乗用車フェローを発売した。エンジンは356cc水冷2気筒2サイクル、23馬力で、駆動方式はFRであった。
 1970年、若さを志向するヤングダイハツを宣言し、そのシンボルカーとしてフェローをFF化したフェローMAXを発売した。


フェロー・セダン。67年10月のマイナーチェンジ後のもの。38.5万円

フェローは1970年4月のフルモデルチェンジでFF方式を採用、モデル名はフェローMAXとなる。これは71年8月に追加されたハードトップ。エンジンは356cc水冷2サイクル直列2気筒40/33馬力。41.9〜47.2万円

 

 

タウンミニ:ミラ/クオーレ

1980年6月発売されたミラクオーレ。エンジン出力は31馬力。62.2〜78.4万円

 軽自動車の生産台数は1970年の130万台をピークに落ち込み、75年には60万台と半分以下になってしまった。その後徐々に盛返し、80年には111万台まで回復した。
 このような環境の中、1980年6月ダイハツの軽戦略車種ミラ・クオーレは発売された。当時の統計データから、軽自動車の場合、使用者の54.4%を女性が占めていることから、ターゲットを女性に絞り込み、1.5Boxスタイルと称する広々とした室内空間、イージードライブに欠かせないオートクラッチなどが用意された。1ヵ月後に4ドアと3ドアのクオーレが発売された。その後、ターボ、4WD、ウォークスルーバンなど多彩なモデル展開により販売を伸ばした。1983年10月、軽ボンネットバン市場で初の首位獲得。84年3月は月販2万台を超えた。85年4月にはダイハツ初の1モデルでの国内販売累計60万台突破を達成している。
 1985年2月から渋谷パルコとのコラボレーションで展開したミラ・パルコシリーズは若い女性達を魅了した。

 

ミラクオーレより1ヶ月遅れて7月発売のクオーレ。エンジン出力は31馬力。62.2〜78.4万円

ミラ・パルコのカタログの一例。1989年8月発行であるから2代目の終盤。ダイハツのキャッチコピーには秀逸なものが多い。

軽ではじめて。ユニークなミラ・ウォークスルーバン。

ミラ4WDとターボのカタログ。3代目には4WSもあった。72.8万円(ターボRタイプ)

 

 2006年12月、ミラは7代目に進化し、2008年RJCカー・オブ・ザ・イヤーのベスト6に軽自動車で唯一選出された。また2007-2008日本カー・オブ・ザ・イヤーの特別賞Best Valueを受賞した。昨年はムーヴ/ムーヴカスタムが2007年RJCカー・オブ・ザ・イヤー特別賞最優秀軽自動車を受賞している。
 このように高い評価を受けるのは、私見だが、技術者が市場の反応に謙虚に注意深く耳を傾け、製品にフィードバックできる実力と実行力。この積み重ねがすばらしいクルマを生み出すのではないだろうか。
 2006年、軽自動車生産台数は205万9089台に達し、ダイハツが63万2951台(シェア30.7%)で初めてトップの座を獲得した。
今回旧いカタログを調べて気づいたのは、99%のカタログに発行年月が統一された形で記されていたこと。これはすばらしい事だ。
 次の100年に向け更なる発展を期待します。見届けられないが。